常識 世間一般 普通 という宗教
常々、常識や世間一般、普通というものが
私を痛めつけてきたと思う。
勇気を奪ってきたと思う。
行動する意欲を削いできたと思う。
時には生きる気力すらも。
最近気付いたことが事がある。
日本は無宗教国家といわれる。
でも日本における常識、世間一般、普通、当たり前。
それはもはや宗教だ。
そして私も常識教の信者だった。
この事に気付いた時、私は開放された。
私はやっと無宗教になった。
今までの痛みは癒やされた。
今まで気づけなかったのは
生まれた時から空気のように存在する信仰だったからだ。
↑外から見ると地球が丸いとわかる。地球の中にいると気付くのが難しい。物事の本質を見るには広く多角的な視野が大事。
過激な宗教家は
「この神を信仰していない人間は攻撃対象」
という思想をもつ。
日本における常識や世間一般、その同調圧力に
宗教の過激派と似たものを感じざるを得ない。
常識は宗教という概念を持つ人は少ないだろう。
でも人は物心ついてからは常識を信仰している。
自分も、他人も。
無意識的な、異質を排除する思想への信仰。
常識という神の意志に反する他者を攻撃対象とする。
常識に反している。制裁しよう。と。
同時に、自分自身も攻撃対象になる。
常識に反さないようにせねば。制裁される。
神(常識)の意志に従わねば。
他人にも自分にもそんな狭い生き方を強制してしまう。
他人同士でお互いを縛り、自分自身も縛る。
そんな状況だったんだな。とふいに気がついた。
そうか、自分も他人も、
ひとつの思想の熱心な信者なだけだった。
そう腑に落ちた瞬間、痛みは消えた。
怖がる必要も勇気を削がれる必要もないし
行動を制限されると思わなくていい。
日本で信仰している人が多い宗教なので、
その思想の人々が多いことを覚えておくことと、
配慮した言動を心がけるくらいでいい。
これからは常識や世間一般とうまくやっていけそうだ。